8/24土 岩手県 田野畑村にていくちゃんとのライブペインティング開催します!
こんにちは、松本佳奈です。
8/24土は岩手県の田野畑村にあるアズビィ楽習ホールにて、14時より歌わせていただきます。育色工房いくちゃんとのライブペインティングです!
田野畑村の皆さんに、いくちゃんのライブペインティングを見せたい!2年越しの想いが叶います。観覧無料でどなたでもお越しいただけますので、是非!
最初はチケット代を設定しようかと話していましたが、たくさんの方々、子供達に見てほしいということで村の皆さんが協賛して下さり、観覧無料となりました。本当に本当に、有難いです。
田野畑村の皆さん、そして工藤房子さんに会いに行ってきます。
田野畑村との関わり、房子さんとの出会いについて、昔のブログから引用しました。
2014年8月13日のブログより
夕方、田野畑村の沿岸部、島越(しまのこし)から、工藤房子さんという方がハックの家を訪れました。
「島越という地域に伝わる歌(校歌のようなもの)の譜面や音源が震災で失われてしまった。今数人しか歌える人がいない状態で、このままでは消えてしまう。どうにか保存できないだろうか?」
房子さんはとても物腰が柔らかく、声が美しい方でした。お話される言葉ひとつひとつが丁寧で、明瞭。
島越に伝わる三つの曲の歌詞が配られ、その一つひとつを房子さんに歌っていただき、音を取っていくことに。
島越小学校愛唱歌1
作詞・作曲 佐々木サキ先生
緑の波が寄せていた
島越港の浜辺には
静かに影が寄せていた
みんなで泳ぐそのたびに
あなたもわたしも先生も
泳いだあとのひとときは
小石まじりの砂浜に
楽しい夢を話したね
清らに済んだ秋空に
赤いトンボが飛ぶころは
みんなで肩を組みながら
岸の浜辺よ さようなら
にこにこと笑いながら話していた房子さんでしたが、歌い始めた途端、涙で声を詰まらせました。その時私は、「これは、何度も歌わせてはいけない…」と思いました。
ただ伴奏をつけるのとは違って、メロディの音を取っていくのは私にとって難しい…でもなるべく一度で正確に聞き取れるように気をつけました。
この旅で何度も痛感していること。
それは、歌は記憶を呼び起こす、ということ。その力の強さ。房子さんにとってこの曲を歌うことはまだ辛すぎるんだ…と、ひしひしと感じたのでした。
取った音を元に私が試しに歌ってみて、「なんか違う…」という箇所を直して行きます。
そしてもう一度私が歌います。
「これで合っていますか?」
「はい(にっこり)」
房子さん、ほんとうに嬉しそうに笑うんです。そんな感じで二曲目も音を取り、三曲目。
追憶の村(浜茄子の歌)
浜茄子の咲く丘に 浜茄子の風が鳴り
青い海青い空 忘れじの田野畑よ
オマルペの谷ゆけば 島の越潮鳴りの
コイココベアイヌらが
追われたるさま浮かぶ
平井賀の崖ゆけば 霧深きハイペ浜
焚き火たき歌いたる 夏の日の思い出よ
月の夜の平井賀の 月青き波の色
語らいし彼の人に 憧れし明戸浜
そそり立つ断崖に 石の浜しずもりて
人恋し丘の辺の しじまなる机村
孟蘭盆の月淡く 漁火に太鼓の音
輪踊りの手拍子や 流れゆく森の夜
これはテープが残っていました。聴いてみると、ピアノ一本の伴奏。テープがすり減って音が半音近くずれていましたがなんとか復元!
歌詞は6番までなのですが、復興の願いを込めて7番を作ってほしい…というのが房子さんのもう一つの希望でした。
ひとまず三曲分の聞き取りを終えてホッ。
(聞き取りの様子はこちら)
その後は、房子さんによる大学生向けの「被災体験の語り」が行われました。
島越が、美しい砂浜にたくさんの観光客が訪れる場所だったということ、四季折々の海産物が美味しく、お祭りでは地域が一丸となって盛り上がっていたこと。子供は地域の子供として大切に、お年寄りは地域のお年寄りとして大切にされていたこと。
駅で切符を売る仕事を週に二回していた房子さんは、訪れた観光客が船で島を巡って帰って来た時の「あんなに美しい風景は初めてです!」という言葉、駅の階段から「また来ます」と手を振る姿が忘れられないそうです。
2011年3月11日、そのすべてが失われてしまいました。
房子さんは避難の途中、杖をついたおばあさんを助けようとその手を掴んだ瞬間、津波に飲まれてしまいました。息を止めて水中をぐるぐると回り、もう限界…と思った瞬間、スーッと水が引いたそうです。それと同時に、浮いていた瓦礫に押し潰されそうになり、助けて!と叫んでいたところを町の方に救助されます。
救助されてからも寒さで震えが止まらず。
一軒だけ残された家の二階に15名ほどの人と避難し、寒さをしのぎます。
そうしているうちに消防が到着。
避難所まで600mの道のりを歩く途中、津波に飲まれる瞬間手を握ったおばあさんが亡くなっているのを見つけたそうです。雪がちらつき、おばあさんの頬に積もり始めていたけれど、どうすることもできなかった…と。
避難所での生活が続きます。島越には全国からの救援物資が次々と届き、おかず・ご飯・汁物…と、「普通の」食事ができたそうです。
二ヶ月後、仮設住宅に移ることになりました。
仮設住宅には洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ…その日から生活できるすべてが支援によって揃っていて、そのことを房子さんは繰り返し「有難いです、全国の皆様に感謝します」と仰っていました。
しかしそれから房子さんは心を病みます。
夜になると、亡くなった方の顔が蛍光灯に浮かび眠れなくなってしまう…食欲も次第になくなり、体重もガクっと減ってしまった。どうしたらいいのかわからない。
震災の前日、キャッチボールをしていた父子を見て、その子のあまりのコントロールの上手さに「あら、イチローさんだね」と声をかけたら、お父さんがすかさず「ジローですよ」と言って、皆で笑った。
あのお父さんも亡くなってしまった。避難所で息子さんが一人キャッチボールしているのを見かけて、どんなにかお父さんはあの子の成長を見届けたかっただろうか…どんなにあの子はお父さんに成長を見てほしかっただろうかと思った…。そのお父さんの顔が浮かんでくる。
そしてどうしてあの時、おばあさんの手を離してしまったんだろう…いつ離してしまったんだろう…。おばあさんの顔が浮かんでくる。悔やむ日々が続きます。
そこで房子さんは、心のケアのために派遣されたお医者さんに電話します。そのお医者さんは一輪のバラの花にメッセージを添えて、各家に届けていたそうです。「なんでも話して下さい」と。
その先生が言った言葉…「心がまぁるい容れ物のようなものだとしたら、今あなたの心は津波のことでいっぱいになっています。とても苦しい。でも時間が経つとだんだん隙間が空いてきます。別のことを考えられるようになってきます。時間がかかります。二年はかかるでしょうね。」
そしておばあさんのことについては、「おばあさんはあなたが手を取った瞬間、一瞬でも安らいだはずです。嬉しかったはずです。逆の立場で考えてみて下さい」と。
そうして今、少しずつ、フサコさんの心には隙間が生まれてきたそうです。
「今はただただ、生きていることに感謝しています。全国からの支援に感謝しています。すべては生きてこそです。生きていたから今日こうして皆さんに出会えました。私に今できることは何だろうと考えて、今年の元旦から一日10円募金を始めたんですよ…」
時には涙しながら、美しい声で、絞り出すように話して下さいました。
ものすごく大切な時間でした。
最後にハルさんが、房子さんの希望であった浜茄子の歌の7番の歌詞を書き上げ、私が歌いました。
ウミネコが追いかける 飛沫舞う船影
かぐわしき浜茄子が 君を待つ島越
「…夢が叶いました」
そう言って房子さんはにっこり笑いました。
歌声喫茶最終日。
房子さんとの出会い、島越の歌との出会いは、私自身にとっても非常に大きなものとなりました。
0コメント